味な老舗 第112回 江戸菓子匠 つくし
歴史
1877年(明治10)年創業。初代米蔵は水天宮を信仰し、毎朝欠かさずに参拝。
その熱心さに心打たれた当時の神主が、水天宮発祥の地である九州・筑紫地方にちなみ、屋号に「つくし」の名を贈ったという。
看板商品の「人形町風鈴」は持ち帰り用。店で食べる「おでんと茶飯」セット。※注 現在店内営業はお休み中です。
創業以来の逸品「招福赤飯」は都内高級料亭に仕出ししている。
こくがあり大人気の人形町風鈴 江戸生まれの初代のレシピで再現。
安産の神様で知られる日本橋蠣殻町の水天宮。「戌の日」ともなると、大きなおなかを抱えた女性たちが各地から参拝に訪れる。「つくし」は、こうした参拝の茶店として、1877(明治十年に日本橋の銀杏(いちょう)八幡の店を振り出しに、代々「一子相伝」で商売をしてきた。
同店で今、看板商品になっているのが、「西洋風茶碗蒸(ちゃわんむし)菓子」。江戸時代の1851(嘉永四)年生まれの創業者、鷺谷米蔵が書き残したレシピ帳を基に、五代目当主鷺谷光寛さん(36)が再現した。
光寛さんはこれを、米蔵氏の生誕百五十年の節目である2001(平成13)年から「人形町風鈴」と命名し、売り出した。見た目はどこにでもある西洋菓子のプリンと変わらない。だが、牛乳と鶏卵、この単純な素材を、和菓子の要である小豆を煮るのと同様に、時間と手間をかけて、丹念に濾しながら作った「風鈴」は、こくがあり、同店の主力商品だった。「俵おはぎ」や「ぜんざい」「大福」などをしのぐ人気を集めている。
光寛さんは、かつて経済紙記者だった父、潔さん同様、大学卒業後はいったん、大手食品メーカーで会社勤めをしたが、潔さんが病に倒れたのを機に、二十六歳でこの道に入った。その父も、1998年に亡くなった。
京都の老舗和菓子店で二年間、修行をつんだ。しかし、二十代の若者にとって、百二十年以上続いてきたのれんは想像以上に重かった。「父は赤飯を焚かせたら右に出るものはいない、と近所でも評判の和菓子職人でした。父が亡くなり、つくしの味が落ちたといわれるのが、悔しくって」
自信を失いかけていた時、四谷にある鷺谷家の菩提(ぼだい)寺で、寺の”過去帳”とともに偶然発見されたのが「初代米蔵秘伝帳」。その中の「西洋風茶碗蒸菓子」という項目に、光寛さんは目を奪われた。
「当時、すでにプリンが日本に上陸していたかはわかりませんが、江戸時代に生まれた米蔵が、和菓子の伝統を壊すような、自由な発想でこんな菓子を考え、作っていたのかと思うと驚きました。先代を踏襲することだけにこだわっていた自分の小ささに気づき、肩の力がすっと抜けたような気がしました」
同店は、茶店時代からの名残で、店の奥の茶寮部で甘味のほかに、おでんや茶飯などが食べられ、昼時は女性客でいっぱいになる。
かつては敷かれたレールに乗ることを嫌っていた光寛さんだが、今は「伝統」と「一子相伝」、その言葉の重みが、和菓子づくりへの励みと楽しさにつながっているという。(丹治 早智子)
2005年1月26日付け東京新聞